- 2011-4-1
- その他・雑談
※今回は東日本大震災関連の情報提供記事になります。
こんにちは!早稲田集中力研究会の中西です。
このブログは、ふだんは「勉強の集中力アップ」に関連するテクニックを中心に、
効率よく勉強するためのさまざまな方法をお伝えするブログですが、
当面は、今回の「東日本大震災関連の情報」も並行して配信させていただきますので、ご了承くださいませ。
(配信内容は、あくまで私の独断と偏見で、読者さん・被災者の方にとって必要もしくは有益だと判断したものに限らせていただきます。)
さて、先日都内の某役所に勤める友人と話していたのですが、計画停電中は部屋が真っ暗の状態でも仕事を続けているとかで、
ほとんど文字も見えない状態で無理に仕事をするので、気分が悪くなって病院に行く人まで出ているとか。
「被災地の方のことを思えばこれくらい・・・」と思って皆さん乗り越えているそうですが、正直その我慢もどこまで続くかという問題もあります。
23区に住んでる私も今のところは計画停電は免れていますが、電力の消費が激しくなる夏前ごろにはたぶん23区も停電は免れないはずです。
そんな話をしていろいろと今後の対策等を考えていた矢先、
「あるブログ」
を見て、自分の心配ごとがいかに恵まれた状況における贅沢な悩みかと痛感させられてしまったのです。
もちろん、計画停電が企業や個人に与える影響を軽視しているわけではないのですが、そのブログを読んだときに、
「やっぱり自分は本当に、本当に、本当に、恐ろしいくらい恵まれた環境にいる・・・」
と思わずにはいられませんでした。
そのブログとは、被災地へ医療スタッフとして行かれた看護師さんのブログです。
報道規制をしているテレビでは全く伝えられていない、あまりにも壮絶で過酷な地獄のような状況と、
そしてあまりにもあたたかく優しい人々のドラマがそこにはありました。
あるいは当ブログの読者さんにとっても、何かの気づきがあるかもしれないと思いましたので、勝手ながら一部ご紹介させていただきます。
たぶんそのブログはいずれ書籍化されて、歴史に残るブログになると思います。
実際2000件を超えるコメントの中には、講談社の方からの書籍化のオファーまであったほどですが、まあ本になるならないはともかく、
今、このブログは日本人全員が読むべきブログだと私は思いました。
全部で14記事あり、その中からとくに私の印象に残った部分を下に引用させていただきます。
すべての記事がすごいですが、とくに、
「1、被災地へ。」
「3、赤い旗」
「7、瑠奈チャン」
のタイトルがついている記事は、個人的には必ず読んでほしいです。
JKTS
被災地へ医療スタッフとして行ってきました。
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<記事一覧>
1、被災地へ。
2、初日の自分。
3、赤い旗
4、小児と高齢者
5、消えてく命、生まれてくる命
6、ライフラインと絆
7、瑠奈チャン
8、仮設住宅
9、月明かり
10、明日は今日より良くなる。
11、スマイル。
12、人の立場に立つ
13、Family
14、From TOKYO
上記の記事から、以下一部引用させていただきます。
——引用ここから————-
3月15日
私の勤務する病院でも災害対策支援医療チームが発足されました。
(中略)
この仕事をしている以上、きっと何か出来るんじゃないかとずっと思っていて
オファーが来たときは「これだ!」と思いました。
前日に資料を配られ医療チームでの協議に参加。
荷造りに必要なものの中に財布やお金は不要と書かれていました。
持って行っても使い道はない、食事や睡眠は確保出来ないと思う事、トイレも仮設トイレは被災者優先と。
そして他院のリーダーナースとして指揮をとる方からの挨拶。
『想像以上に現場は壮絶。甘い考えやボランティア精神の人はここでリタイアしてください。
現場ではどんな状況下においても絶対に泣かないこと。
私達は同情しに行くんじゃない。看護、医療を提供しに行く。あなたたちが泣きたい気持ちなんかより現地の方々はどんなに泣きたいか。
こんなに裕福な東京医療チームの涙なんて現地の人には迷惑や嫌味だからね』
へたれな私はもうこの時点でドヨーンとした思いでした。
ばっちりメイクの先輩も名指しで呼ばれて
『化粧なんてして来ないように』
協議が終わって部屋に帰ってからは不安な気持ちを紛らわせたくてお友達にメールしたり
被災地に行く宣言をすることで自分に気合いを入れていました。
しばらくあったかいものも食べられないと思って
つけ麺も頑張って2玉食べました(´`)
実家も被害を受けていたけど様子を見に行きたくても交通機関が復旧していなくて帰れないし
医療チームとして明日から被災地に行くことを母に電話して背中を押してもらった気持ちになりました。
『実家のみんなはピンピンしてるから、困っていたり大変な思いをしている人の力になってきな~』
と言われてすごく元気になりました。
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一分間黙祷をしながらもっと早く来るべきだったと思いました。
避難所や病院に行く前にざっと市内を案内される。
ここは商店街でした、
ここは郵便局だよ、
ここはおいしいラーメン屋、
ここは公民館、
ここは幼稚園、、、
ただの瓦礫の山。
15mくらいの真っ黒な津波が往復して全てを飲み込んでいったとのこと。
避難勧告が出て準備をしていたり、逃げる最中にみんな流されて行って、
誰かのせいにすれば少しは矛先が出来て醜い感情を出せるけど、天災だから怒りの持って行き場がないと言っていました。
年に数回海を敬うお祀りもあっていつも海に感謝をして暮らしていたんだよ、それなのに・・・と現地の人は案内しながら涙を流していました。
もうこの時点で私も泣きそうだったけど、絶対泣かない約束だったから、現実から目を背けて曇った空ばかり見ていました。
案内する人の後ろをずっと手をグーにして肩をすくめてついていきました。
風が吹くとどこからか
セピア色の写真や赤ちゃんの写真付きの年賀状が足元に飛ばされてくる。
そして一歩二歩歩くごとに赤い旗がヒラヒラ揺らいでいる。しかも数えきれないおびただしい数の旗。
「この赤い旗は遺体が見つかった場所に立てられています」
正直つらかったです。
ある旗の前に佇んでいるお婆さん。私のお婆さんと同じくらいの年だったかな?
「東京の看護婦さん、ここにおじいちゃんが戦後一生懸命働いて建てたおうちがあったんだよ、
おじいちゃん病気ひとつしなかったのに死んじゃったよ」
人間の感情があるから泣くなと言われても無理でした。
リーダーナースが飛んで来て私の耳を引っ張って車の陰に連れて行かれて
すっごくおこられました。
怒られようがもう自分は素直な感情でここでやっていこうと思いました。
テレビで映されているのは報道規制のなかの範囲内でそれでもあの映像。
映されない、テレビで流せない現状をこの目で見てきましたがそれはもう地獄でした。
案内されている隣で、自衛隊の方が瓦礫や木材をどかすと泥だらけになった遺体が必ず出てきて。
この光景は一生忘れないし
忘れてはいけないと思う。
瓦礫や木材と言っても数日前は誰かの生活の一部だった家や道具や誰かの宝物です。
その下から続々見つかる遺体。
そのたびに手を合わせる自衛隊の方々。そして偶然居合わせてしまった私たちも合掌しました。
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採血をすると真っ黒でどろどろした血液がひけて
「お食事したりお水飲めていますか?」と聞くと
「私だけそんな飲み食い出来ないし、おにぎりと朝夕のお茶だけだよ」と力なく答える患者さん達。
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そういえば今日もあんまり笑顔を見せてないなって時に、妊婦さんが産気づいたとの連絡。
私と同じ年くらいの初産の妊婦さん。
助産師の免許はないから点滴の確保とベビーキャッチにまわりました。
点滴を入れていると
「重症のかたがたくさんいるこんな時に本当にすみません」
と。
「何をおっしゃいますか!!高田のみんなや全国のみんなが赤ちゃんを待ってますよ!!」
と声をかけました。赤ちゃんは明日への希望です。
元気な赤ちゃんが生まれたときは、薄暗い分娩室が本当に明るくなったように思います。
お湯も思うように沸かせないからガスコンロであたためた湯を準備したり
支援物資で届いたアンパンマンのバスタオルに包んで。
涙を流してるお母さんが
「もうちょっと早く生まれてきてくれたらおじいちゃんとおばあちゃんに見せられたのに。とても楽しみにしていたのに。」
と言っていました。
でもこんなにスムーズに元気な赤ちゃんが誕生したことは、きっとそばで見守ってくれていたに違いないと思いました。
眉間にシワを寄せてピリピリしていた救急チームも産声に駆けつけ、一気に笑顔の空間に。
これから大変なことがたくさん待ってるけど、
絶対それ以上に嬉しいこと、幸せなこと、楽しいことだって待っています。
この赤ちゃんが大人になる頃は元の高田市に戻って笑顔が溢れる穏やかな街並みになっていることを
その場にいたみんなが願いました。
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「瑠奈チャン、なにが欲しい?」の私の質問に
「おうちとママ」
いつも一緒にいるのが母親かと思っていたけど、次の日、それは叔母さんということが分かりました。
瑠奈チャンのお母さんも被災され、あんなにかわいい瑠奈チャンを残して瓦礫の下から変わり果てた姿で見つかったそうです。
瑠奈チャンは幼稚園にいて救出されたけど
お母さんは瑠奈チャンが大事にしていたお人形や絵本の入ったリュックを抱えて亡くなっていたそうです。
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18日夜
避難所の体育館に時間制限はありますが電気が復旧しました!!
電気がついた瞬間拍手喝采で嬉しくてみんなで泣きました。
全国で節電したから予定より早く復旧したそうで、本当に本当に嬉しかったです。優しさが伝わりました。
被災地に到着した日は、雪が降り積もっていて現地の人が
「こんなときに雪が降って神も仏もいなくなったな」
とつぶやいていたけど、
神も仏もいない今、
優しい気持ちの生きてる人間がたくさんいるよ!!
とちょっと胸をはれたような気がします。
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救急患者対応だけでなく
避難所の血圧測定と健康相談、
現地ナースに休んでもらうために入院病棟の患者の処置や巡視、
エレベーターが止まったままなので食事の配膳時には5階建て階段の往復、
時間が少しでもあいたら火をおこしてお湯を沸かす、
1日が24時間では足りないくらいでした。
寝る時間が2時間でも
横になりながらこの時間も何か有効につかえないか考えていました。
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道が整備され、陸前高田にたくさんの重機が来てくれました。
そして、瓦礫を除けるとたくさんの遺体が出てきました。
遺体はトラックに乗せて運ばれて行き
早く探している人たちと会えるといいなと思いました。
また悲しみが広がりました。
瓦礫の下から昨日から復旧して電波の入るようになった携帯の着信が聞こえました。
妊婦さんの遺体が出てきたときも本当につらかったです。
何の罪もない人たちが犠牲になる現実。
人が生きていく意味が分からなくなってしまいました。
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頑張ってとか頑張ろうって言えない。
頑張り過ぎてるくらい頑張ってるのを見ているから
「我慢しよう」「乗り越えよう」としか言えない。
これ以上頑張れとは言えないし、頑張ったところで
どうにもならないことがたくさんありすぎたから。
だけど、だんだんいい方向にむかってるよね?
今日はちょっと寒いから気持ちも弱気。
でも頑張ろう!!
たくさんのお別れもあったけど
今日やっと家族や友達に会えた人もいるんだから。
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医療チームで何かお土産を置いていけないか考えて、建設業の方にも協力してもらい、
足湯だけでも出来ないかという話に。
建設業の方たちも即OKをくれて材料で流しそうめん並みのたくさんの人が使えそうなのをあっという間に作ってくれました。
水が出ないから給水車まで行って水をみんなで運んで焚き火の火やコンロで湯を沸かす。
避難所のみんなを呼びに行き、足湯を見せると『えぇーっ』とびっくりした様子。
みんなで一列に並んで足湯をすると、一気に笑顔でした。
あんまりあったかいお湯じゃなかったけど喜んでもらえて良かった。
嬉しくて足湯なのにそのお湯で顔を洗っちゃったおじいさんもいました。
『これみんなの足を洗ったお湯ですよ~(笑)!』って言ったら
『いいんだよ、みんな家族みたいなものだ』と。
みんなも家族みたいって思っていたんだなぁって嬉しかったです。
またみんなの笑顔に励まされてしまいました。
足がずっとぽかぽかだよって言って
ぐっすり眠りについたみんなを見て、
自分が出来るちっぽけなことがなんだか嬉しくてずっと泣いていました。
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ここで見たこと、経験したこと、感じたことは同僚や友達や家族に伝えていこうと思います。
当たり前の日常がどんなに幸せなことか。
そばにいてくれる家族や友人がどんなに大切な存在か。
水や電気の資源の供給がどれだけ恵まれていることか。
いろいろ人それぞれ感じ方も違うしきっと全く他人事に思う人もいると思うけど、いつ自分が被災者になってもおかしくないのです。
帰りは陸路で帰ってきましたがだんだん東京が近づいてくると
どっちが現実社会なのか分からない錯覚に陥りました。
当たり前についている信号、電気がついている高層ビル、きれいな身なりの道行く人。
震災にあった地域は対岸の火事のように過ぎてる都心の時間。
でもきっと本当の現実は被災地で都心は非現実社会なんだと思います。
———-引用ここまで————-
※上記でご紹介した内容は、全14記事の中からの一部抜粋です。くわしい記事内容は以下のリンクからご覧ください。
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<記事一覧>
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P.S
今回ご紹介したブログを読んでいる間、私は正直涙が止まりませんでした。。