こんにちは、中西です。
前回は、「ChatGPTがコーチングの脅威になるか」というテーマで、私が考えるChatGPT(AI)の可能性と限界についてお話ししました。
このテーマでもう1つ、最近感じているのは、「ChatGPTは人間の文章をどこまで代替できるか」です。
これはすでに相当なところまで代替できるようになっています。
学生がChatGPTで論文を作成して世界的に大問題になってますし、翻訳の仕事などはChatGPTの登場以来大きく減っているようです。
ニュースサイトでも以前から天気やスポーツ記事など簡単な記事はAIで書いていますし、今後はメイン記事もどんどんAIが作成していきます。
商品の販売ページや広告などのコピー、動画の台本、小説や脚本、書籍などもChatGPTで作成されていきます。ここまでは確定というか現在進行形。
ただ、人間が一切かかわらずにChatGPTだけで各種の文章を作成して行けるかというと、天気やスポーツの結果などのデータ系以外、それは難しいのかなと。
そもそもChatGPTが文章を作るための質問を投げかけるのは人間ですし、出てきた文章をチェックするのも人間です。
たとえば販売ページを全部ChatGPTに任せたら、成立はしても説明書に近い文章になると思います。質問内容を工夫しても、どうしても人間味がないどこか機械的なニオイは消えないはず。
結局その販売者の商品開発に賭ける情念や、お客さんに貢献したいなどの思いを、AIが作成した文章“だけ”で伝えるのは厳しいのではなかろうかと。「見る人には違いがわかる」からです。
私が1番好きなクリストファーノーラン監督は、映画でCGを使うのが大嫌いなのですが、それは限りなく本物に見えても観客にCGだと伝わるからです。だから彼はCGではなくガチの映像で作品を作っています。
ガチの重要性でいうと、個人的には「水曜日のダウンタウン」のドッキリと「モニタリング」のドッキリの違いとも似てる気がします。
前者は(ディレクターの藤井健太郎氏が言うように)ガチが売り物ですが、昔何回か見たモニタリングは明らかにヤラセなのが分かることが多かったです(最近は知りませんが番組体質は変わらないはず)
人間の文章が「水ダウの本物のドッキリ」のような生々しさだとしたら、ChatGPTの文章はモニタリングのような「楽しめなくもないけど、ニセモノだから響かない」という感じ(ーー;)ヤラセヤン
この「微妙な違い」が、「大きな違い」になっていくのかなと。
人間としては、ガチの情念・魂がこもった仕事をして、それを文章で伝えられる人は、ChatGPTの文章には取って代わられない人間味を出せるため(行間からも)、AIには負けないように思います。たぶん!笑